前書き

ヤヌス・・・ローマ神話に出てくる神の一人で、二面性を持つと言われています。
今回はそんな二面性のある、ちょっと危険？なお話です。

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それはいつもの土曜日の午後のことだった。

「わああ、遅れる。」
ブルーウィンド従業員専用出入口の扉を乱暴に開けて飛び込む夏樹。
「シフトを間違えるなんて、大失敗だよ〜。」
根が真面目な夏樹は、いつもは時間に余裕たっぷりで来るのだが、
今日は、シフトの時間帯を勘違いしたらしい。
夏樹らしからぬ失態といえばそうなのだが、普段皆に振り回されてヘトヘトな夏樹は、かなり疲れが溜まっていた。
「あと５分・・・何とか間に合う・・・」
と着替え室のドアを開けようとした夏樹は・・・
「うわああ？！」
「きゃっ・・？」
ガシーン
着替え室から出てきた女の子とまともにぶつかってしまった。
頭をしこたまぶつける夏樹。目から火花が飛び出て今までの記憶がすべて吹っ飛ぶかのように頭が真っ白になった。
そのまま倒れ込む。
「・・・って、ナツキちゃん？！　だ、大丈夫ですか？」
出てきた女の子は恵理香。倒れた夏樹を抱き起こそうとして夏樹に触れる。その時
「・・・ってぇ・・・まったくどこ見てやがるんだ・・。」
「・・・え・・・？」
普段の夏樹からは想像すらできない口調。脚を組みながらぶつけたおでこをさすっている。
今日の夏樹の私服は、母親にさせられたスカート姿。幸い？なのはミニスカートじゃないということだ。
（実はミニスカートにするよう迫られたのだが、それだけは断固阻止した。）
だからとっても行儀が悪く見える。
「・・・あ、あの・・・ナツキ・・・ちゃん・・・？」
恐る恐る夏樹の様子を伺う恵理香。顔は確かに夏樹なのだが、目つきが何だかいつもと違うようだ。
「・・・な、何ジロジロ見てんだ？うぜぇんだよ。」
と言いながら立ち上がる夏樹。その際、自分が今スカート姿なのに気が付いた。
「・・・な・・・な・・・何じゃあ？こりゃあ？！」
「あ、あの・・・ナツキちゃ・・・。」
ぷるぷる震える恵理香。そして
「・・・こんなの・・・・ナツキちゃんじゃ・・・ありませんわー！」
ばきいぃ！
思わずグーで夏樹を殴る恵理香・・・なぜお嬢様がグーで殴るのかは・・詮索しないことにしよう。
「・・・・痛い・・・あ・・・あれ？」
殴られた頬を押さえながら、ふときょろきょろ辺りを見回す夏樹。
「あ、恵理香さんおはようございます・・・って、わああ、遅刻だー、すみません恵理香さん。」
夏樹は恵理香を押しのけるようにして着替え室に入る。
中で夏樹が慌てて着替えているような様子が、ドア越しからも感じられる。
その様子を神妙な顔つきで見つめる恵理香。
「・・・ナツキちゃんに・・・あんなワイルドな一面があったなんて・・・」
そう言いながら、だんだん頬が赤らんできて、両頬に手を当てる。
「・・・ああいうナツキちゃんも・・・何か良いわぁ・・・。」
夏樹の新たな魅力を最初に発見できたことに、ある種の悦びを感じる恵理香。
だが、彼女はまだ気づいていなかった、これが今後とんでもない事が起きることに。

夏樹の方はというと、頬を押さえながら着替えをしていた。
タイムカードは結局間に合わなかった、後でマネージャーの雅美さんにお詫びしなければ。
遅刻の事については考えが落ち着いたが、他にも考えがまとまらないことが１つ。
『・・・何で頬が痛いんだろう・・・？』
そういえば、着替え室のドアを開けようとしてから恵理香に会うまで、記憶が一切ない。
『・・・うんたぶん、恵理香さんにぶつかっちゃったんだな、後で恵理香さんにもお詫びしなきゃ。』
そう考えが行き着いた後、着替えも終わりロッカーを閉める夏樹・・・この時点では夏樹も自らの変調？に気が付いていなかった。

フロアに出ると、恵理香が既に業務に就いていた。
「あ、ナツキちゃん・・・」
顔を見た途端なぜか（夏樹にとっては）頬を染める恵理香。
「あの・・・先程はすみませんでした、ぶつかってしまって・・・。」
恵理香に頭を下げる夏樹。
「え？・・ああ、それはいいのよ、それよりお仕事お仕事。今日も忙しくなりますわよ？」
にっこり微笑む恵理香に、ほっと一安心する夏樹。
遅れた分がんばらなければ・・・律儀にもいつもより一生懸命働く夏樹だった。
そんな姿に、夏樹に対する好感度はますます上がってくる。
「オーダー入りました、ハンバーグセット２つ、オムライスセット１つ・・・」
流暢にオーダーをキッチンに通す夏樹に、注がれる熱い視線。
「ナツキさん素敵です、私も見習ってがんばらなくては。」
夏樹に対し、尊敬（いや敬愛というべきか？）の想いを秘める杏子は今日もキッチンにいる。
シフトについては各自希望を聞いたうえでマネージャー雅美が決定しているのだが、
どこで知るのか杏子の希望は、夏樹とほぼ同じであった。
偶然にしてはあまりにもできすぎている、これがオーナーの孫娘・恵理香ならば調べることも朝飯前だと納得もできるのだが。
もうこれは、恋する？乙女がなせる業といえるだろうか。
それはさておき。
いつもより張り切りすぎた夏樹は、バックに引っ込んだ所で床に置いてあったジュース等の空き瓶入れに躓いてしまう。
「わ、わ、わ、とととと・・・。」
「ナツキさん危ないっ・・・！」
倒れそうになる夏樹に思わず駆け寄ろうとする杏子・・・間にあるカウンターが邪魔で行けないのがもどかしい。
そうしている間に派手に転ぶ夏樹、床に頭をぶつけてしまう。
ガンっ！！
「だ、大丈夫ですか？！ナツキさん。」
頭をさすりながら起き上がる夏樹。
「・・・・あ・・・・あいててて、何なんだよ、これはよお！」
転んだ原因の空き瓶入れを足で蹴りつける。
「ナ・・・ナツキさん・・・？」
夏樹のいつもと違う雰囲気に驚く杏子・・・いや杏子だけでなく周りのスタッフも驚く。
「・・・何だ？どいつもこいつも何ジロジロ見てんだよ？」
足幅を拡げた状態で立ったまま周りを睨みつける夏樹・・・スカート姿なので傍目にはちょっと恥ずかしい格好だ。
表情も、普段の温和な雰囲気が一変、険しい目つきになっている。
「いやああぁぁ！ナツキさんが壊れたー！！」
杏子が、まるでムンクが叫ぶかのような反応をする。
騒ぎを聞きつけ傍に駆け寄ってきたクリスが、夏樹を見てちょっと苦笑いしながら言う。
「・・・どうでもいいけどアンタ・・・・パンティ見えてるから。」
「はあ？パンティ？」
転んだ拍子か、夏樹のスカートがめくり上がって下着が見えていた。
「わああ？何だよこの格好？・・・ったく、誰がこんなの何時の間に・・・。」
自分の姿にぼやいている夏樹の背後にそっと忍び寄る一つの影・・皆もそれに気づいたが誰も夏樹に注意しない。
なぜなら、この後何が起きるか予想がついていて、皆もその方が得策だと思ったから。そして・・・
バシン！
「う・・・？」
倒れる夏樹。
「ごめんなさいねナツキちゃん。」
夏樹の頭をトレイで殴って気絶させたのは恵理香だった。
「杏子さんクリスさん、ナツキちゃんを運ぶのを手伝ってくださいな。」
「わ、わかりました。」
「OK。」
「それでは、後はよろしくですわ。」
夏樹は恵理香たちによって事務室まで運ばれていく。

「・・・・そんなことがあったなんて、どうなっちゃったのかしら？」
事務室のソファーに寝かされた夏樹の傍で、事の一部始終を聞いた雅美が呟く。周りにはクリス・恵理香を中心とする女性陣が集まっていた。
「・・・たぶん・・・ストレスが溜まっているんだと思うな、それで精神的に不安定になってるんじゃないかな。」
クリスが神妙な顔つきで分析する。
「ストレス・・・というと・・・、杏子さん、あなたがナツキちゃんにつきまとっているからですわ。」
クリスの分析（？）を元に、恵理香が杏子を責める。
『・・・どっちかっていうと、エリカが原因だと思うけど・・・。』
クリスはそう思いながらも口には出さないことにした、お嬢様な恵理香には何を言っても無駄だろう。
「恵理香さん酷いです、あなただってつきまとっているでしょう？」
「つきまとうだなんて失礼です！私はナツキちゃんと大の親友ですのよ、当然ですわ。」
『・・・・どっちもどっちだよなあ。』
クリスが肩をすくめて呆れているのを他所に、恵理香と杏子が言い争いを始める。
これで裕香まで加わったら収拾がつかなくなるだろう、今日裕香がオフで良かった。
「ま、まあ喧嘩はそのへんで・・・、今はそんなことしている場合じゃないでしょう。」
雅美が２人を止めようとする。
どうしてこの２人はいつもこうなんだろう、クリスはクリスで、面白そうに見ているだけだし。
何だか胃が痛くなってきた雅美だった。
「・・・う・・・うう・・ん・・・」
突如、夏樹が寝返りを打つ。どうやら周りの喧嘩がうるさくて気がついたらしい。
「ナツキちゃん、大丈夫ですの？」
恵理香が声をかける。他の皆も夏樹の顔を覗き込む。
「・・・あ、あれ・・・？どうしたんですか皆さん？・・・う・・・ん、何か頭痛い・・・。」
それは恵理香がトレイで殴ったせいだろう、それよりも
「ナツキちゃん、覚えてないんですの？」
「・・え？　あ、そう言えば・・・ここ・・・事務室？何で・・・？
僕・・・フロアにいて・・・バックに来て・・・、あれ・・・・？」
夏樹は肝心の所を全く覚えていないようだ。
「僕・・・何かしました・・・？」
「お、覚えてなければいいのよ、頭痛いんだったら、ここでしばらく休んでなさい、ね？」
雅美が慌てて取り繕う。
「はあ・・・わかりました・・・すみません。」
頭を片手で抑えながらお辞儀する夏樹。
何だろう・・・何か今日一日変だ・・・、夏樹は何だか不安でたまらない。いったい僕に何が起こっているのだろう？
『ねえクリス、ナツキちゃ、いや夏樹君のことなんだけど・・・。』
雅美がクリスに話しかける。
『夏樹君、精神的に無理しすぎて二重人格になっちゃったのかしら・・・。』
そういえば木村夏樹は確か本当は”男の子”だったわよねと思い出す雅美。
『普段おとなしくて礼儀正しいあの子が、正反対な性格になってしかもそれを自覚していないなんて・・。　
そうとしか説明がつかないわ。』
『マサミもそう思う？実は私もなのよ。・・・やっぱりマサミはノーマルね、一番信用できるわ。』
クリスと雅美がそう小声で会話している間も、恵理香と杏子はまだいがみ合っていた。
「ナツキちゃん、私がそばにいてあげますわ、だから安心してお休みになって。」
「恵理香さん、ナツキさんの嫌がっている表情がわかりませんか？あなたじゃ余計に疲れるだけなんです。」
『はぁ・・・、どっちも僕の事は放っておいてほしいんだけど・・・・。』
夏樹のそんな思いを他所に、事務室では異様な空気が流れていた。
「あの・・・僕、早退します。何だか落ち着かないので・・・。」
これ以上ここに居ても気疲れするだけだ、家に帰って寝た方が良い・・・夏樹はそう考えた。
「あ、そ、そうね、その方がいいわ。お大事にね。」
「はい、すみません・・・。」
夏樹は立ち上がって、着替え室へ向かおうとする。
「ナツキちゃん、私もついていてあげますわ、何なら送って・・・。」
「恵理香はダメ！まだ時間じゃないでしょう。」
雅美がぴしゃりと恵理香を止める。
ここで恵理香の思い通りにさせると、今度は杏子が突っかかってくるだろう。これ以上２人の争いは御免だ。
「・・・もぉ、仕方ありませんわね・・。」
杏子の睨みに気づいてか、恵理香も雅美の制止に渋々納得する。
「じゃあ失礼します・・・。」
夏樹はお辞儀をすると、事務室を出て着替え室へ向かった。

自分のロッカーに着いた夏樹は、ため息を付きながら着替え始める。
ロッカー内の小さな鏡に映る自分の顔・・・それをまじまじと見つめながら今日の事を考える。
「・・・何か時々意識が飛んでるような気がするなぁ・・・何だろう？」
ちょっとお疲れ気味以外、普段と変わったところは何もない。
「はっ！僕ってもしかして・・・。」
何かとんでもない病気に罹ってしまったのだろうか？夏樹の脳裏に悲観的な考えが渦巻く。
「・・・いや、たぶん疲れてるだけだ、うん、そうに違いない。」
着替え終わってロッカーを閉めると、『ブルーウィンド』を後にした。
夏樹は気づいていなかったのだが、実はこの数分後、ある人物が彼（？）に会いに店に来ていた。
「え・・・もう帰ったんですか？」
帽子を目深に被りジャケット姿のその人物は、夏樹が居ないことを知り残念そうに言う。
「・・・あの失礼ですけど・・・ナツキちゃ・・いえ、木村に何の御用でしょうか？」
応対した恵理香は、夏樹との関係がどうしても気になってこう尋ねた。
どこかで見たような気がするのだが、帽子を深く被っていて顔がよくわからない。
「あ、いえ、別に用ってほどでは・・・では失礼します。」
恵理香に睨まれている気がしてそそくさに店を飛び出す。そして少し離れた所で帽子を被り直した。
「・・・ふぅ。あんな従業員と一緒じゃ夏樹君も大変ね。」
誰であろうそれは美沙だった。
何となく夏樹と少し話がしたかったので来てみたものの、居ないんじゃしょうがない。
「ちょっと時間が早いけど、帰るか・・。」
自分の家に帰ろうとしたのだが、何故だか足が夏樹の家の方へと向いていた。
どうしたんだろう？私、何だか夏樹君に会わないといけないような気がする。
何時の間にか夏樹の家の近くまで来ていた。そして
「あれ？美沙先輩？」
夏樹がいた。会いたいと思っていた彼が目の前に。
「夏樹・・くん・・。」
思わず笑みがこぼれる美沙・・・でもそんな自分が恥ずかしくなり表情を元に戻そうとする。
「あ・・・ぐ、偶然ね、近くを通りがかったものだから・・・。」
何だか妙に焦ってるみたいで余計に照れくさくなってきた。相手は年下の男の子、何を焦る必要があるのか。
「・・・あの・・せっかくだからちょっと寄っていきませんか？相談したいことがあるんです。」
夏樹は思い切って話を切り出した。今日の事を聞いてもらいたい、一番自分が信頼できる美沙さんに。
「え？いいの？お家の人に迷惑なんじゃ・・・。」
「大丈夫です、この時間なら誰もいませんから。」
つまり家で２人きりっていうことに？
「クスクス・・・相変わらず何気に大胆な事言うのね。」
遊園地の時も同じようなことがあったなあと思い出し笑いする美沙。夏樹もようやく美沙が言わんとすることがわかった。
「あ、あの・・・そういう意味じゃなくてですね・・・。」
「わかってるわよ。じゃあ・・・ちょっとお邪魔しちゃおうかな。」
「はいどうぞ。よろしくお願いします。」
夏樹君はただ単に相談にのってもらいたいだけなのだ、そう感じる美沙は、何の警戒もせず夏樹の家に入っていく。

「じゃあここで待っていてくださいね、今何か飲み物でも持ってきます。」
夏樹は台所へ向かう。美沙は案内された夏樹の部屋で待つことになった。
「ふ〜ん、ここが夏樹君の部屋か・・・。」
きちんと整頓された部屋は、まるで夏樹の性格を表しているかのようだ。
これが女の子っぽくコーディネイトされてなければ、とても男の子の部屋とは思えない。
まあそれは仕方ないだろう、母親が男っぽいものは全部取り替えてしまったのだから。
「先輩、入りますよ。」
部屋の外から声がする。
「どうぞ・・・って夏樹君、ここ貴方の部屋でしょう？遠慮する必要ないじゃない。」
「あ、そういえばそうでしたね。」
ジュースを持ってきた夏樹が照れながら入ってくる。
「おかしな夏樹君（笑）。」
「すみませ・・・わ！？」
「きゃ・・・！」
ジュースを持ったまま夏樹が躓く・・・女の子が部屋にいるので緊張しすぎたのだろうか。
美沙の上からジュースがこぼれ落ち、びしょ濡れになる。夏樹の方はそのまま美沙の傍で倒れ込む。
「もお夏樹君、何やってるのよ、大丈夫な・・・・の・・・？」
夏樹に声をかけた美沙は、何だか妙な違和感を感じて黙り込んだ。
夏樹君の様子が変？夏樹は頭を抱えながら起き上がる。頭などぶつけたようには見えなかったのに？
「ふ・・・ふふふ・・・ふふふふ。」
夏樹が忍び笑いをしている・・・声の感じがいつもより低い。
「・・・え・・・と、夏樹君・・・？」
恐る恐る声をかける美沙。それと同時に夏樹が美沙の上に覆いかぶさった。
「ちょ・・・ちょっと何を・・・！」
「何を・・・て、わかってんだろうが。いちいち言わすんじゃねえよ。」
いつもの夏樹君の口調じゃない？目つきも全然違う？・・・美沙は何が何だかわからなかった。
ただ・・・どうしてだろう？怖いとか嫌だとかという感じがしなかった。
頬が火照ってきてドキドキしている自分がいる、まるで何かを期待しているかのように。
夏樹は元々女の子に間違えられるぐらいなのだから、”男”としては本当はかなりの美形なのだ。
夏樹に興味を示したのは、男と女の違いはあるとはいえ同じ境遇だから、だけではないかもしれない。
夏樹の秘めたる”男”の部分に、好みのタイプであることを見出したのであろうか。
『もしかして・・・私・・・夏樹君が好き・・なのかも・・・？』
美沙がそう考えてるうちに、夏樹の手が美沙の胸に伸びてきた。
『夏樹君・・・私・・。』
美沙はドキドキしながら目をぎゅっと瞑る・・・このまま私行く所まで行くのか、いろいろとちょっとまだ早い気もするけど。
これはそういう小説なのか？（笑）


「・・・何だ、胸、小せえ・・。」
「！！！」

夏樹の呟きに、美沙はさっきまでの想いがすべて吹き飛んだ。

「人が一番気にしてることを〜！」
ばきいい！
「わああ！」

夏樹を思いっきりグーで殴った。
そう、美沙が男に間違えられることがあるのは、背の高さ、雰囲気もさることながら、胸が小さいからなのだ。
これで胸が背丈に似合うぐらいあれば、男に間違えられずにすんだものを・・・美沙はいつも気にしていた。
それを夏樹から言われてしまったのだ。思わずキレてしまったのは言うまでもない。

「・・・・って、夏樹君？」
夏樹は完全にのびていた。
そして・・・



「・・・美沙先輩・・・僕、何かしたのですか？何だか頭と頬が痛い・・・。」
夏樹は美沙にした事言った事を何一つ覚えていなかった。
でも美沙の表情で何となく察した。今日の事務室で、雅美さん達が僕の事を見ていた表情と同じだったから。
「・・・やっぱり僕何かしたんですね。そうなんです、今日相談したかったのはこの事なんです。」
美沙は夏樹の事を何となく理解した。
今まで、周りから散々”女の子”扱いされてきた抑圧が暴走した結果なのだろう。
この可愛らしい部屋を見ても分かる、本来守るべきはずの親までが周りと同様に夏樹を扱っているのだと。
「・・・僕は病気なのでしょうか？」
夏樹はかなり落ち込んでいる。今日はずっとそれで悩んでいたのだろう、美沙は同情した。
「そうね・・・病気ともいえるし病気じゃないかもしれない。」
美沙はできるだけ夏樹を刺激しないように言った。
「夏樹君が言うべき事を皆にはっきり言えば治ると思うわ。」
「言うべき事・・・ですか・・。」
それが言えればそもそもこんな苦労しないのにと思う夏樹。美沙もそれを重々承知していた。
「夏樹君、一人で何も言えないなら私も一緒に言ってあげるわ。
貴方のご両親にも一言ガツンって言ってやりましょう、”僕は男”なのだと。」
美沙は夏樹の手を取りながら言った。
「美沙・・・先輩・・・。」
夏樹は美沙のその想いが嬉しかった。
ただ両親、特にあの母親だけは美沙さんも敵わないじゃないかと思う。あれは筋金入りだ、美沙さんを巻き込むわけにはいかない。
「ありがとうございます、でも僕、言う時は言いますから。」
・・・何だか前にもこういう事があったような気がする夏樹。あの時から僕は全然成長できていないのだろうか？まあ深く考えてもしょうがない。
「・・・そうね、さっきの夏樹君、ちょっと格好良かったわよ男っぽくて・・・行為は抜きにするとしてだけどね。」
「え？やっぱり僕、美沙さんに何か失礼な事を？」
「あ、気にしない気にしない、もう済んだことだし。」
結局胸は触られなかったし大丈夫・・・見た目で”小さい”と言われたのはちょっとショックだったけど。
「でも僕、このままじゃ何か起こりそうな気がして・・・。」
夏樹はこの先不安でたまらない。何か起こったら僕はどうしたらいいのだろう。
「自信を持ちなさい。さっき言ったでしょう？”ちょっと格好良かった”って。
夏樹君は本当は格好良い男の子なのよ。
だから堂々としていればいいの、この先何が起ころうとも、ね。そうすれば道は開けるはずよ。」
美沙は本当にそう思っていた。夏樹と夏樹の周囲を変えるには荒療治しかないかもしれない。
そのためにはさっきの”男”の夏樹が、良しにつけ悪しきにつけ必要になってくるはず。
もっとも、夏樹がそれを上手く制御できるかどうかわからないけれど、今のままの状態がずっと続くとは思えない。
また続くはずもないだろう、”男”を”女の子”扱いするのは所詮無理があるのだから。
『・・・普段の夏樹君なら、無理とは全然思えないんだけどね。』
これは思っていても夏樹君には言わないようにしよう。彼のことだ、また落ち込むに違いない。

「ありがとうございます、美沙先輩。おかげで何だか気が楽になりました。」
夏樹の方は、美沙の言葉が身にしみてとても有難かった。
そうだ、いちいち嘆いていてもしょうがない、僕は堂々としてればいいんだ。
・・・周りに流されてしまう方が多いけど、気にしないで僕は僕なりに頑張って行こう。
だって僕は”僕”なのだから。
夏樹は決心する・・・・また周りに流されてこの決心が揺らぐかもしれないが、まあそれも一興（？）だろう。
「そう、頑張って。私も応援するわ。」
夏樹と美沙は固く手を握り合っていた。

「・・・まあ、”女の友情”って素晴らしいわ。」
突然、別の声がする。
「か、母さん！何時の間に？・・・って何時からそこに？それに”女の友情”って何だよ？」
母親が帰ってきて、夏樹の部屋の前に立っていたのだ。
「何時から・・・て、ついさっき。
帰ってきたら、玄関に見知らぬ靴があったし、あんたの部屋から声もするので、誰か友達でも来てるのかと思って。」
「それでも普通、人の部屋を開ける時はノックぐらいするだろ？」
「・・・・開いてたよ？最初からずっと。」
「へ？」
「・・・夏樹君、ジュース持ってきてすぐ転んだから、ドア閉めるの忘れたのよ。」
美沙が夏樹に”覚えてないだろう”事情を説明する。
「・・・・・・・・・。」
夏樹は体中冷や汗が吹き出るのを抑えきれなかった。自分の部屋に女の子を連れ込んでいるのを母親に見られたなんて。
もっとも母親の目には”女の子の部屋”に”女の子”が来ていると映っていて、問題は何もなかったが。
「そういえばあなたは・・・。」
母親は美沙を見る。初めて夏樹が連れてきた女性なので、興味津々だ。
「初めまして。宮島美沙と申します。」
美沙は丁寧に挨拶をする。
「これはご丁寧にどうも。・・・あの、よかったらお風呂どうかしら？ジュースかかってるでしょう。」
「そう・・・ですね。」
美沙は改めて自分の身体を見る・・・確かにジュースがベトベトして気持ち悪い。
さっきまで夏樹の事が気になっていて、自分の身体の事を気にする余裕が無かった。
「服も洗濯した方がいいわね、うちは乾燥機付きだから乾くのも早いわ。
夏樹、お風呂場に案内してあげて。私は買い物してきた物の整理と洗濯の準備をするから。」
「・・・・わかった。」
美沙さんに不快な思いはさせたくないし、ここは母さんの言うとおりお風呂に入ってもらう方がいいだろう。
「じゃあお言葉に甘えようかしら、お願いするわね夏樹君。」
「はい、こちらですどうぞ。」
夏樹は美沙を案内する・・・案内は風呂場の前までで後は母さんに任せよう。
「夏樹、あんたも一緒に入ったら？あんたもジュースで汚れてんだから。」
母親の声が台所からしてくる。
「な、な、何言ってんだよ、いくら何でも一緒に入れるかー！」
まったく・・・うちの母親は何考えてるんだろう、美沙さんに失礼じゃないか。夏樹は怒り心頭だった。
「ま、まあ夏樹君、私が出た後で入ればいいじゃない。」
「美沙先輩・・・。」
美沙さんが入った後の風呂に僕が・・・そう考えただけで夏樹は恥ずかしくなる思いだった。
ちょっと大胆なことを言ってしまったのかな・・・美沙も夏樹の気持ちを察し、顔を赤らめる。
「あ、あの・・・。」
そう言いかけた美沙だったが、率直に言うと余計に恥ずかしくなるから話題を変えようと少し焦る。
「た、大変ね夏樹君も。いつもこんな状態なんでしょう？夏樹君の事、とってもわかるわ。」
「すみません美沙先輩、こんなことに巻き込んでしまって。」
「･･･ううん大丈夫。かえって良かったような気がする。」
「え・・・それってどういう・・・？」
そうこうしているうちに、風呂場の前に着いた。
「あ、こ、ここです、ここが風呂場・・・。」
自分の家なのに何だかとっても緊張する。美沙さんが傍にいるせいだろうか。
「じゃあ、お先にお風呂、いただくわね。」
美沙が風呂場に入っていく。夏樹はその場にいるのがいたたまれず、すぐさま自分の部屋に駆け込んだ。
近くにいると覗かれると疑われるのが嫌なほかに、美沙のさっきの言葉の意味が気にかかるからだ。
ジュースで汚れた服を着替えると、ジュースで汚れた部屋の掃除をし始める。
床を拭きながら、夏樹の頭の中ではいろいろと思いが張り巡らされていた。
特に美沙が言ったあの言葉。
『かえって良かったような気がする。』
どういう意味なんだろう？僕は美沙さんに相談して良かったのだろうか？
それに”意識が飛んでしまう”というこの現象。
さっき美沙さんはこう言っていた。
『・・・夏樹君、ジュース持ってきてすぐ転んだから、ドア閉めるの忘れたのよ。』
・・・・転んでからしばらくの間の記憶が全然無い。
そういえば『ブルーウィンド』でも確か、記憶が途切れたのは転んだ直後だったな。
ということは、転ばなければ大丈夫、ということになる。うん、きっとそうだ。
今度からできるだけ転ばないようにしよう、夏樹はそう結論した。
でも、”意識が飛んでる間の僕”ってどんな感じなんだろう？
美沙さんは”男っぽくて”とか言ってたし、そっちの方が興味あるな。何とかして自分で確認できないかな。
夏樹は”男っぽい”と言われたのが嬉しくて、”記憶が途切れる事”より”男らしい自分を知る方法”に躍起になっていた。
「夏樹君、お風呂上がったわよ。」
風呂場から美沙の声がする。
「あ・・・はーい、今行きます。」
夏樹は風呂場へと向かった。
そして夏樹が風呂から上がった後、時間も遅いから、と夕飯も美沙と一緒にとることになる。
ちなみに、母親は明日も休みだし泊まっていけば？と言ったのだが、
夏樹の猛烈な反対と美沙のやんわりとした拒絶により、それは実現しなかった。
そんなこともあって、もう美沙は自分の家には来ないんじゃないかと夏樹は危惧したのだが、
「また遊びに来てもいいですか？」
という美沙からの提案に夏樹は驚く反面ちょっと嬉しくなった。
夏樹にとって美沙に嫌われることは、自分の事を唯一理解してくれる人を失うことと同等なのだ。



そして『ブルーウィンド』では・・・・
「う〜、私もその”凛々しい”ナツキちゃんが見たかったです。皆さんだけ良い思いしてズルイです。」
こう言っているのは、その時シフトがオフだった裕香。
『”凛々しい”っていうのは、ちょっと意味が違う気がするけどね。』
クリスはそう思ったが、言わぬが花を決め込んでいた。
まあ”凛々しさ”を強調しているのは、恵理香と杏子の２人だけであるが。
「もうそれは格好良かったです。最初はビックリしたんですけどね、そんなことは気にならなくなるくらい。」
思い出しながらうっとりとする杏子。
「もう一度見たかったら、ナツキちゃんを転ばせて頭をぶつけるなどのショックを与えればいいのですわ。
どうやらそれが”スイッチ”みたいなのです・・・ナツキちゃんには申し訳ないのですが。」
夏樹よりさらに突っ込んだ分析結果を披露する恵理香・・・お嬢様なのだが結構侮れない。
「ナツキを転ばすのはいいけど・・・ほどほどにしときなよ。怪我でもしたらどうするの？」
クリスは恵理香を窘める・・・窘めるのはいいのだが、夏樹を転ばすのは問題ないらしい。
「そうです、怪我させるなんてそんな事私が許しません。」
杏子が恵理香に喰ってかかる。
「でも、私だって見たいのに・・。」
一人だけ除け者にされたようで、ふてくされる裕香。
「まあまあまあ皆さん、ここは私にお任せ。」
クリスの仕切りが発動した。
「ワザと転ばすのは危ないし、皆もさすがに気が引けるよね。
ここで提案、ナツキが転ぶのを見守るとしましょう。ナツキだって万能じゃないし、転ぶ時は転ぶはず。
皆もそれまでナツキの事をずっと見守れるので、一石二鳥だと思うけど？」
要するに夏樹が転ぶのをただひたすら待つだけなのだが。
「・・・そうね、それが最善策なのかも。さすがはクリスさんですわ。」
恵理香もクリスの提案に賛成する。確かにここにいる全ての人を納得させるにはそれしかないかもしれない。
「ええ、私ナツキさんの事ずっと見守ります。」
さっそく宣誓する杏子。
「・・・仕方ないわ、そうします。あ、抜け駆けは無しで、転んだらちゃんと教えてくださいね。」
周りの皆に釘をさしておく裕香。
「さあ、それはどうかしら？シフトの関係でどうなることやら。」
「もう、恵理香さん！」
・・・こうして１つの協定が生まれたのだった。もちろん夏樹は知る由も無く。


「どうしたんですか？皆さん、僕の事そんなにじっと見て。」
皆に見られて夏樹は仕事中落ち着かない。それでなくても、ともかく転ばないようにと気を遣っているのに。
「気にしないでナツキちゃん。さあ、今日も楽しくお仕事お仕事。」
恵理香は暢気にそう答える。
『・・・・なんだかなあ・・・。』
何だか以前より疲れる気がする夏樹だった。