小さな災難

「ただいま・・・。」

その日の僕はとても疲れていた。
それはいつものごとく、恵理香さんたちの騒動に巻き込まれたからだった。
ようやく帰り着いた僕はリビングにいる母さんに声をかける。

「・・・・」

母さんは、テレビに夢中で返事もしない。
何をそんなに真剣に見ているのだろう？・・・・ああ、『あれこれ大辞典』か。
『あれこれ大辞典』とは健康や生活の智慧などいろいろな情報を紹介している番組だ。

「あ、夏樹。おかえりなさい、お疲れ様。」
スタッフロールが流れる頃、ようやく僕の存在に気づいた母さんが声をかける。
そんな母さんにちょっと呆れ気味の僕は、語気を強めて言う。
「何をそんなに熱心に見てたんだよ？面白い情報でもあったの？」
「あ・・・そうね、そんなところかしら・・・。」
「？」
何かを隠すように、僕と目を合わせないように答える母さん・・・何だろう？まるで何かを企んでいるような、とても嫌な予感がするんだけど。
「今日は疲れたから、もう寝るね・・・。」
とりあえず自分の部屋に逃げた方がよさそうだ。僕はリビングを去ろうとした。
「・・・夏樹も気をつけないと・・。」
「え？」
母さんがふと漏らしたセリフが気になり、思わず訊きかえす。気をつけろ・・・て？何に？
「あ、何でもないわよ、おやすみなさい。」
テレビをそそくさと消し、誤魔化した母さん。
『・・・まあいつものことか・・・。』
そう思った僕は部屋に向かう。
それが実はとんでもない話だとは気づかずに・・・。

翌日、僕は疲れていた。
それは今日も、いつものごとく恵理香さんたちの騒動に巻き込（以下略）。

「ナツキちゃんは渡しませんわ。」
「恵理香さん、独り占めはズルイです。」

更衣室や休憩室で繰り広げられるこの光景・・・おかげで僕はいつも休息できた感じがしない。

「・・・はああ。」
僕は胃がキリキリ痛くなってきて、痛い部分を押さえながらため息をついた。
「ナツキちゃん？どうしたの？胸でも痛いの？」
恵理香さんがいつもの数倍増しで反応して、僕の肩を掴む。
「え？あの・・・恵理香さん、痛い・・。」
僕は肩を掴まれて痛いのでそう言ったのだが。
「胸が？それは大変・・・！」
突然恵理香さんが僕の胸をわしづかみにする。
「な、何をするんですか？」
恵理香さんの両手を胸から外そうとする。
「おとなしくしててください、ナツキちゃん、暴れられたらわかりません。」
「わ、わかりません・・・って、何が？」
「”しこり”です。」
「へ？」
突然何を言い出すのだろう？恵理香さん。
「昨日、『あれこれ』で見ました。胸の痛みは乳ガンの可能性があります。」
『あれこれ』？・・・・あ、昨日母さんが真剣に見てた番組か？
「乳ガン・・・って、僕は男だよ、そんなことあるわけ・・。」
「ナツキちゃん！」
真剣な眼差しで僕を見つめる恵理香さん。
「”男”だなんて言ってはぐらかそうとしてもダメです。」
いや・・・はぐらかすも何も”事実”なんだし・・・。
「それに乳ガンは若い人でも男の人でもなることがあるそうです、そう言ってました。
胸が小さいからって油断しちゃ危険ですわ。」
恵理香さん・・・それテレビの情報を鵜呑みにしすぎ・・・。
それに僕は男だから、胸が小さいのは当たり前・・・。
「ナツキちゃん、昨日は『あれこれ』見てないからチェックの仕方わからないでしょう？だから私が実技で教えてあげます。」
そんな実技、必要ないです・・・。
「恵理香さん、またそんなこと言ってナツキちゃんとスキンシップはかろうだなんて、ズルイです。」
裕香ちゃんが、恵理香さんを僕から引き剥がそうとしている。
「私はナツキちゃんのことが心配で・・・、ナツキちゃんに何かあったらと思うと・・・。」
涙目になる恵理香さん・・・、う～ん、そんな目で見つめられても困るんだけど・・・。
「・・・確かに、ナツキちゃんが乳ガンだったら心配ですね・・・。」
ゆ、裕香ちゃんまで・・・・。そんな可能性、万に一つもないから。
「な～んか今日はいつにも増してすごいわね～。声が廊下まで響いてるわよ。」
声の方へ振り向くと、休憩の為に今しがた入ってきたクリスさんの姿があった。
「く、クリスさん、助け・・・。」
クリスさんに助けてもらおうと、クリスさんに向けて手を差し出した。・・・が、クリスさんは悪戯ぽく笑うと口を開く。
「私も混ぜてもらおうかな～。」
そ、そうだった、クリスさんはこういう人だったっけ・・。
「ダメです、複数でチェックしても逆にわかりづらくなります。」
恵理香さんが断固拒否する。
「何をやっているの！　まだ仕事中なのよ。」
マネージャーの雅美さんが扉を開け、入ってくる。
「裕香ちゃんはもう休憩時間終わりでしょう、早くフロアに戻って。」
「あ、はい・・。すみません・・・。」
裕香ちゃんはそう返事するが、僕と恵理香さんのことが気になるらしく、名残惜しそうに僕たちの方を見ている。
「ホントにもう！恵理香も何やってるの！」
雅美さんが恵理香さんを叱責する・・・やっぱりマネージャーの雅美さん、真面目でしっかりしてる・・・・
「こういうことは、退出時間後にしなさい。」
え？そういうことなんですか？　この行為自体は問題ないと？
「はい、わかりました。」
「あ、私もフロアに戻りますわ。」
嬉々としてフロアに戻ろうとする２人。
「じゃあナツキちゃん、後でじっくり教えてあげますからね。」
「え、恵理香さん、それは・・・」
僕の言葉も聞かず、恵理香さんは部屋を出て行ってしまった。
「エリカの暴走ぶりは相変わらずだねえ。」
クリスさんがまるで他人事のようにつぶやく。
「そう思うなら止めてください。」
僕は抗議するが、クリスさんの返答に僕は脱力感を覚えた。
「だって見てて面白そうだから。」

「そんなことがあったんだ、相変わらず災難ね。」
「美沙先輩も他人事のように言わないで下さい。」
「あ、あはは、ゴメンゴメン。」

私は夏樹くんから「ブルーウィンド」での今日の出来事を聞いていた。
確かに恵理香お嬢様の行為も常軌を逸していると思うけど。
「それより夏樹君はどうしていつも、嫌なら嫌とはっきり言わないの？」
「そ、そうですよね・・、傍から見たら情けないですよね。」
夏樹君はちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「でも、はっきり嫌だと言うと、皆とても哀しそうな顔をするんですよね。
僕、そういう顔を見ることのほうがつらくて、だったら僕が我慢すればいいかな、って。」
ああ、そう言えば夏樹君ってウェートレスになったきっかけもそうだったっけ。自分の事より他人の事を心配するんだから。
でも、それじゃあ夏樹君のために良くないような気がする。
それに、皆哀しそうな顔をするのはわざとで、夏樹君のそういう性格を利用しているのかもしれないし。
「夏樹君、はっきり言うことの方が大事なのよ。
とても勇気がいることだけど、はっきり言うことで自分の気持ちを皆にわかってもらえるの。
このままじゃ夏樹君、皆に本当の自分をわかってもらえなくなるわよ。」
「わかっているんですけど・・・。」
そう言いながら夏樹君は私の方を向く。
「他の人には何と思われても僕のことを理解してくれる人が一人でもいてくれたら、それだけで良いかなって。」
「え・・・？」
そ、それって私の事・・・？夏樹くんってば、今自分がすごい大胆なこと言っているのかわかっているのかしら？
・・・そう考えているうちに、何だか私の顔が熱くなってきた。
「あ、あの・・・僕、何か変なこと言いました？」
「あ、いや別に・・。」
もう、こういうことには全然疎いんだから。私もはっきり言ったほうがいいのかしら。でもまだ早すぎる気もして、ああああ。
「そ、そういうことなら良いんじゃないかしら。要は夏樹君の気持ち次第なんだし。」
何か当たり障りのないようなこと言ってるような気がするけど、本音を言ったら夏樹君を困らせそう。
「ありがとうございます、先輩。じゃあこれで失礼しますね。」
夏樹君は嬉しそうな顔で頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って夏樹君。話ってこれだけ？」
確か、聞いてほしいことがあるからって校門前で私を待っててくれたんじゃなかったっけ。
「はい、先輩と話すと何故だか気持ちが落ち着いてすっきりするんです。
・・・あの、もしかしてご迷惑でした？」
すごく哀しそうな顔で訊いてくる・・・う～、そんな顔されるとすごい罪悪感を感じるのは何故？
「あ・・・と、別にいいわよ、私でよければ。」
ああああ、私も夏樹君の事をとやかく言えないなあ。やっぱり私達って似たもの同士なのかしら。
「ありがとうございます。お礼にまた奢りますね、『ブルーウィンド』に来て下さい。」
「こ、こちらこそ。じゃあまたね。」
夏樹君と別れる。

そう、夏樹君の話を聞いてあげるたびに『ブルーウィンド』で夏樹君にご馳走になっている。
それはそれでいいんだけど、行くたびに恵理香お嬢様を筆頭にウェートレス軍団に睨まれているようで、あまり楽しくはない。
まあ、女の子らしく見えるように行っているので、風当たりはそんなにひどくはないけれど。
男っぽい格好で行ったら、また疑惑の目（ナツキファンにとっての”敵”）で見られて大騒ぎになってしまうしね。

「・・・ふう・・・。」
空を見上げながらため息をつく。
日はすっかり落ちて、西の空には星が一つ輝いている。
風がこころなしか切なく感じた。