その扉は木製で従業員専用通路の扉であった。保守点検や清掃など業務の為に従業員が出入りするための通路だ。
「・・・？」
綾はいぶかしげにその扉を見る。
従業員が入ってくる？風呂場にはまだ客がいるのに・・・・？
「何・・・？」
他の女性達も不安げだ。

ガタ・・・

扉の向こうではまだ音がしている。

”何”かいる？
綾はとっさにそう思った。何となく邪な気が流れてくる。従業員の気配ではない。
「皆さん、騒がないで。すぐここを出てください。」
綾は裸体にタオルを巻きつけると、他の女性達を更衣室の方へ移動させる。
「・・・綾、あんたは・・・？」
洗い場にいた母親が心配そうに声をかける・・・綾が真剣な顔をしているのだから何か良からぬことが起きそうなのだろう。
「大丈夫、心配しないで。」
こういう危険な状況なら、慧さんと組んでいるので慣れている・・・綾はそう考えていた。もっとも今回は相方である慧はいない。
ただ、今まで慧に頼っていた面があったのだが、いつまでも頼りっぱなしではいられないとも感じていた。

ガタガタ・・・

『・・・私一人でもやらなくちゃ・・・。』
怪しい音がする扉を睨みつける。


一方、扉の向こうでは・・・

「おい、押すなよ。」
「狭いのに引っ付くな。」
「しっ、大きい声を出すな。気づかれる。」
数人の男性達が腰にタオルを巻いただけの姿でひしめき合っている。昼間、消波ブロック一帯の所で練習していた空手道場門下生御一行だ。
実は従業員専用通路は男女ともにつながっている。
通常は通路に入るための扉は全て鍵がかかっていて従業員以外入れないはずなのだが、男性浴場側の扉が壊れていたため、彼らが入り込んでしまっていた。
普通ならばこんな所に入り込む客はいないだろう。扉にはちゃんと「従業員専用」と書いてあるのだから。
ところが彼らは、従業員専用通路の壁が木板張りなので、板の隙間から目を凝らして見れば女性浴場の様子が見えると思ったらしい。
ある意味邪気に捉われた彼らは、好奇心と期待を胸に秘めつつ、立ち入り禁止区域にあえてやって来たわけだ。
・・・・空手で身体を鍛えているといっても、所詮は男の”性”なのだろうか。
「もうちょい・・・もうちょいで・・・。」
「・・・何が”もうちょい”なんだ？」
「だから、湯船が見え・・・て、え？」
彼らにとってここに在ってはならない声。血の気が引く思いで、声の方へ振り向く。
「と、戸崎先輩・・・っ。」
現れたのは、腰にタオルを巻いた信一郎だった。彼は後輩でもある門下生たちの動向が気になり後を尾けてきたのだ。
「こそこそ隠れて何をやっているのかと思いきや、覗きか・・・情けない、それでも我が一門の門下生か？」
「す、すみません・・・つい魔がさして・・・。」
「修業が足りんっ。すぐに風呂を出ろ、今から稽古をつける。」
「「「お、押忍・・・。」」」
信一郎に諫められ、慌てた門下生達は通路を出ようと出口へ向かう。だが、狭い上に、図体の大きい男達が一斉に移動するものだから、通路の板壁がミシミシと唸りはじめた。
「お、おい、場所を考えろ、もっと整然と移動できないのか・・・。」
突然の人の波に、信一郎はもまれた挙句、近くの木製扉に押し付けられてしまった。

バキン

男達の身体の重みで扉の鍵が壊れ、はずみで信一郎は扉の外に転げ出てしまう。
「・・・・ふう、身体面だけじゃなく精神面も鍛え直さないと・・・。」
「し・・・信一郎・・・？」
「ん？」
自分の名を呼ぶ女性の声・・・そういえば、この扉の向こうって確か女性用の・・・！
「い、いや、これはその・・・」
慌てながら思わず振り向くと、立っていたのは胸と腰をタオルで隠しただけの少女。
「な、なんで信一郎がここに・・・。」
「・・・あれ・・・？」
名前を言われて信一郎ははたと気づく。
確か昼間会った女の子だけど、お互いに名前を教え合っただろうか？少なくても俺は彼女の名前を知らない。
「どうしてあんた俺の名前を・・・？」
「え・・あ、そ、それは・・・。」
今度は逆に綾が慌ててしまった。まさか”実は薫”だとは言えない。後ずさろうとして身体を動かす。

パラリ

「わ・・・っ！」
綾の身体に巻きつけてあったタオルがはだけようとしていた。タオルの下は何も身に付けていない、しかも目の前には上半身裸の男性。
この状況下に、綾は顔から火が出るほど真っ赤になる。

「わあああ、見るなああああぁ。」
ババババババ・・・

完全にパニックに陥った綾は、手足を信一郎にぶつけまくる。
その”技”があまりにも素早く的確に、人体の急所（経穴）に命中したので、さすがの信一郎も防ぐことはできなかった。

「ぐ・・・。」

ドーン

床に倒れこむ信一郎。
タオルをきつく身体に巻きつけ、呆然とした状態で座り込む綾。

「綾、何なの今の音？」
母親が騒ぎに気づき浴場へ戻ってくる。綾は母の声に気づき、はっと我に返る。
「お・・・お母さん・・・っ。」
駆けつけてきた母親に抱きつく綾。
母親はそんな綾をやさしく抱きとめながら、床に転がっている男を見る。
『・・・この人、確か薫のクラスメイトだった・・・、ふ〜ん、なるほどね。』
その目は少し意地悪く笑っているように見えた。
「お客様、どうかなさったのですか？」
女性従業員が騒ぎに気づき駆けつけてくる。だが、男が女湯の床でのびているのを見て、
「け、警察を呼んできますね。」
とフロントの方へ引き返してしまった。
「・・・あ、待って、この人は・・・。」
綾が女性従業員を止めようとするが、母親に制される。
「無駄よ綾。まあ、たとえ過失だったとしても、この状況じゃ男の方は何を言っても言い逃れできないでしょうねえ。」
「そんな・・・。」
綾は中学時代の親友である信一郎の性格をよく知っているから、信一郎が故意で侵入してきたのではないということを理解していた。
いや、理解している”つもり”だったのかもしれない。彼と離れて早や数ヶ月、その間に何らかの心境の変化があったという可能性もあるのだから。
だが、綾は信じたかった。ここで信一郎を疑ってしまえば、中学時代の信一郎との友情が壊れてしまう感じがしたのだ。そう、”男”と”男”の友情の絆が。
だから、信一郎が捕まるのを何とかして避けたかった。でも、私に何ができるのだろう？そもそも信一郎がのびてしまったのは私が当たり構わず殴ってしまった為だし。
それにここは『封印の巫女』の影響力が高い桜木市ではない。信一郎を弁護するとしても、はたして私の言葉をここの警察は認めてくれるのだろうか。
そうこうしているうちに廊下側から声がかけられる。
「警察がもうすぐ来ますので、服をお召しでないお客様はお急ぎ下さい。」
その声に綾は自分自身がまだタオル１枚だけの素っ裸だったことに気づく。
周りを見回すと、他の女性達は既に着替え終わっているようだ。
「綾、あとはあんただけよ、早くなさい。・・・まあ、そのままの格好で良いならそれでもいいけどね。」
母親はニヤっと笑う。
「あ・・・あのね・・・。」
母親らしからぬ言葉に綾は脱力した。どこの世界に娘の痴態を不特定多数に見られて気にも留めない親がいるのか・・・いや、目の前に居た、と。

綾が着替え終わる頃、警官達がやってくる。
「入っても大丈夫ですかね？」
現場が女子更衣室なので、突入するのをさすがに躊躇したらしい。ホテルの支配人に確認をとっている。
「はい、皆さんもう着替え終わっていますので。」
支配人はそう答える・・・更衣室内の様子は女子従業員から確認していないようだ。
「それにしても、覗きに来て転んで気絶だなんて、おまぬけな奴もいたもんですね。」
警官の一人が誰かれともなく言う。どうやら”綾が殴り倒したから”という事実は警察に伝わっていないようだ。
「とりあえず男を外へ・・・ん？君たちは？」
警官達はまだ更衣室内にいる綾と母親に気づく。
「公務の邪魔だ、関係者以外は立ち去りなさい。」
このままでは信一郎は”おまぬけな覗き”として捕まってしまう・・・そんなことはさせない、綾は決意した。
「・・・・関係あります。彼は覗きなどする人じゃありません、これは単なる事故です。」
「ということは彼とは知り合いかね？だが、この状況では覗きと疑われても・・・。」
「私が彼の身元を保証します、だから、この場は引いてください。」
綾は信一郎を助けようと必死に訴える。
「い、いや、一般人の方にそう言われても、ハイそうですかと引き下がれませんよ。
・・・まあとりあえず、君の名前と住所を訊こうか。」
事務的に調書をとろうとする警官。
「・・・神城　綾です。住所はＩ県桜木市・・・」
「桜木市の宮内神社です、お巡りさん。」
綾より先に母親が答える。綾はそんな母親を小声で制する。
「お、お母さん。ここ桜木じゃないんだから”宮内神社”だけじゃ通じないよ・・・。」
「まあまあ。結構有名なのよ、あんたの神社って。」
「え・・・？」
そう言えば、”宮内神社”と聞いた時の警官達の反応・・・何かを思い出そうとしているような感じがする。
「桜木市・・・宮内神社・・・神城　綾・・・？どこかで聞いたような・・。」
そう言いながらどこかに連絡を取り始める。
「・・・はい、確認なんですが・・・・はい・・・はい・・・ええええ？！・・・りょ、了解しました。」
通信を切った警官達は、今度は綾に向かって敬礼をする。
「し、失礼いたしました。それでは我々はこれで引き下がりますです、では。」
警官達はそそくさと立ち去る。彼らの態度のあまりの急変ぶりに唖然とする綾。
「お母さん、これって・・・？」
母親は綾の背後から肩に手を回しながら答える。
「ほら言ったでしょ、”有名”だって。あんたはもっと自分の”立場”というものを自覚なさい。」
「？　う、うん、わかった・・・。」
実は綾がいる宮内神社は、桜木市など地方自治体だけではなく、国家権力まで多大な影響力を持っている。
ただしそのことは、世間一般はもちろん関係者内でも一部の人間にしか知られていない。『封印の巫女』になったばかりの綾が、その事実を知らなかったのも無理はないのだが。
なお母親が知っていたのは、彼女自身が神北一族の直系（慧の母親の妹）であり、内情を知る立場だったからである。
「・・・で、どうしましょうか綾ちゃん？」
「あ、そうだった・・・。」
２人は、まだ床でのびたままの信一郎を見ていた。

信一郎がふと我に返ると、自分がさっきの風呂場とは違う場所にいることに気づく。周りを見るとソファーとテーブルが並べられ、自分はそのソファーの１つで横たわっていた。
「？　ここ・・・ロビーか・・・？」
「あ、やっと気づかれたのですね。」
どこかで聞いたような少女の声。声の主が風呂場で自分を倒した相手だと気づくのにそう時間はかからなかった。
「・・・ふ、俺もまだまだ修業が足りないな、こんなか弱い女性に倒されるなんて・・・。」
信一郎は、綾が実は”封印の巫女”で『妖』相手なら百戦練磨の強者だとは、知る由もない。
「あ、あの・・・。」
「か弱いだなんてとんでもございませんわ。」
殴り倒したことを謝ろうとする綾を止めるかのように、母親が割って入る。
「お、お母さん、何で出てくるの・・・！」
「お母さんって・・・あれ？そういえばあなたは薫の・・・？」
信一郎は昔を思い出していた。子供の頃、薫の家に行った時に、このお母さんに会ったような気がする。
「はい、神城薫の母でございます。」
「お、お母さん？！」
綾は焦った。何を言ってるんだ、この母親は。自分の正体を信一郎にばらす気なのか？
「あら？　綾も”お兄さん”から聞いて彼を知っているんでしょ？」
「「”お兄さん”！？」」
綾と信一郎が同時に声を上げた。お互い顔をつき合わせる２人。
「そう、双子のお兄さんの”薫”よ。」
母親はさも当然、というように補足説明する。
「そうか、だから俺の名前を知っていたのか。」
「あ・・そ、そうそう、お兄ちゃんからよく聞かされてたの。」
「それに以前にどこかで見たような顔だと思ったよ。よく見ると薫にそっくりだもんな。」
「うんうん、よく言われるの。」
合点がいく信一郎と上手く合わせる綾。綾自身は何だか複雑な気持ちなのだが、これで話の辻褄が合うかと思いきや・・・
「・・・あれ？薫に双子の妹がいたなんて初耳だぞ？」
信一郎のツッコミに綾がさらに焦る。
「え、え・・・と・・。」
「知らないのも無理ありませんわ。綾は巫女の修業をする為に、幼少時から薫とは別々に暮らしていたのです。
十数年ぶりにようやく帰省できたので、久々に親子水入らずでこちらに遊びに来たのよ。」
しどろもどろになる綾の代わりに母親が答える。
「そうでしたか。薫のやつ、そんな話全然してくれませんでしたよ。」
納得する信一郎。・・・そういう話、普通信じるか？と綾は思わずツッコミたくなった。
「そういえば、薫は元気にやっていますか？桜木市の方へ行ったきり、全然会う機会がなくて。」
「ええ、元気でやっていますよ。ただ、全寮制の学校に移ってしまって、しばらく実家には帰れそうにもないみたい。」
母親の方は”シナリオ”がきちんと出来上がっているので、澱みなく説明を続ける。
「う〜んそれは残念です。まあ薫なら、おとなしそうでいて結構しっかりしていますから、どこに行っても上手くやっていることでしょう。」
信一郎は安心したように答える。
『・・・信一郎・・・。』
やっぱり信一郎は自分の親友でいてくれるのだと、”薫”である綾は胸が熱くなった。
信一郎自身は、まさか薫本人が”女の子”の姿で目の前に居るだなんて夢にも思っていないだろう。
「ありがとう。今度また、うちに遊びにいらっしゃいな。この綾が相手するのでよければ。」
「そうですね、一度またお手合わせ願いたいものです。今度は勝ちますよ。」
・・・何だか”相手”の意味を勘違いしているんじゃないかと綾は思ったが、あえて突っ込まないことにした。
自分がこれ以上何か下手なことを言うと、話を合わせられる自信はないからである。
「・・・・戸崎先輩、申し訳ありません・・・。」
信一郎の道場の門下生達が、彼を迎えに来た。項垂れたままなのは、”自分達をかばってくれた”と勘違いしているので頭が上がらなかったからである。
「何だお前ら、しゃきっとしろ！・・・あ、すみません、彼らを待たせているので今日はこれで失礼します。」
「はい、がんばってくださいね。」
母親はにっこりしながら、お別れの意味で手を振る。綾も顔を引きつらせながら手を振った。
信一郎は門下生達と共に去っていく。

「・・・・根が単純な人でよかったわね、綾ちゃん。」
「・・・・お母さん、何だか事実と虚構が入り混じっていなかった？」
「あら？下手にあれこれ説明するよりも信憑性が出ると思ったけど？
こういうのは、堂々とした態度で整合性のある話をすれば意外と納得してくれるものよ。」
そういえば近所の人達もそれで納得したんだよなあ、と考える綾。
自分が生まれる頃から住んでる人ですら、双子の設定に疑問を抱かなかったんだから、さぞかし話が上手かったのだろうな。
「でもこれで、あの彼とは正々堂々と会えるようになったでしょ。」
母親は綾の顔を見ながらニヤニヤしている。
「な、何をバカな事を・・・。」
ここまで言って綾は、母親に相談した時の事を思い出した。そう、あの時確かにこう言っていたのだ。『お母さん応援するから。』と。
「ちょ〜っと単純すぎる所はあるけど、結構いい男じゃないの。
真面目で実直そうだし、質実剛健って感じの武道家なんでしょう、”巫女”の夫としては相応しいと思うんだけどなあ。」
母親は悦に入った顔で話を続ける。どうやらこの母親は、綾と信一郎をくっつけたかったらしい。
「・・・そんなの今から決められないよ。それに・・・」
信一郎が自分の夫に？今まで”親友”だと思っていた男と自分が・・・・？そう考えると綾は何だか心が落ち着かなくなった。心臓が激しく鼓動している。
もっとも神北一族の掟で言えば、『封印の巫女』である綾は血脈を維持する為に勝手に結婚相手を選ぶことはできない。
綾の母親の場合は、同じ一族とはいえ『封印の巫女』になれなかったので、ある程度自由に恋愛ができたのである。
一族の掟を母親が知らないはずはないのだが、綾の反応を面白がってこんなことを言い出したのであろうか。
「・・・それに、私は”封印の巫女”なのだから。」
綾は天を仰ぐように顔を上げる。それはまるで自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
まあ綾自身は、掟の事よりも、これから『封印の巫女』として、いや、女性としてやっていけるのかどうか不安になっている。そこには男との恋愛など考える余裕はない。まして結婚の話などそれ以前の問題である。

『・・・・親としては、姉さんと同じ道を歩んで欲しくはないんだけど・・・・やっぱりどうしようにもないのかしらね・・・。』
母親の方は窓から見える空の向こうを見ている・・・今は亡き姉の姿を空に追い求めるかのように。