神城家のキッチンに母と娘の二人が立ち、料理を作っていた。と言っても娘の方はその動作がぎごちなく、少々危なっかしい。
まあ綾は今まで料理などやった事が無かったのだから仕方が無いのだが。母親に注意を受けながら、包丁を使ったり、調味料を入れたりしている。
「ふふふ････」
満面の笑みを浮かべ嬉しそうに料理をする母親に綾は不思議そうに訊いてくる。
「何か機嫌良いみたいだけど？」
「そりゃそうよ･･･母さんはこうやって”娘”と一緒に料理をするのが夢だったんだから。」
今までは”息子”だったせいでこういう機会が無く、母親は寂しかったらしい。だがひょんなことから”娘”が出来て、長年の夢が実現したのだから機嫌も良いわけだ。
「･･･私としては複雑な気分だけどね。」
確かにキッチンに母親と一緒に立つ事など、男だった時は考えもしなかった。別に『料理は女がするもの』などと言うわけではなくて、単に恥ずかしかったのである。
それが今、女の子の身体になったとたんこうやって一緒に料理をしているのだから妙な気分だ。まあ母親を手伝うことに異存はなかったのだが。
「でも･･･この格好はどうなのかな？」
自分の身体を見渡しながら綾は言う。言っておくが別に変な格好をしているわけではない。ただ、やたらにフリルの付いたヒラヒラしたエプロンが気になったのだ。
そのエプロンを先程着替えた服の上から着ているだけなのだが、慣れないせいか綾にすれば非常に恥ずかしい。
しかしその恥ずかしがる姿がまた綾を魅力的にしているのだ。母親の機嫌の良いもう一つの理由でもある。
ちなみにそんな綾の姿を父親（随分経ってから帰宅した）が、リビングの方からちらちらと見ている。本当はもっと近くまで行って見たいのだが。
「そこで大人しくテレビでも見ていて下さいね、あ・な・た。料理の邪魔になりますから。」
そう母親から言われ、父親は仕方なくリビングのソファに座り、テレビ見るふりをしながら、娘のエプロン姿を見ているのだ。
残念ながらカウンター越しの為に上半身までしか見えないが、それでも動きに合わせて揺れ動くフリルに父親の目尻が下がっている。
はっきりいって情けない状況で、せめてもの救いは綾が料理に気を取られてその事に気付いていない事か。もっとも母親にはバレバレで、後で彼女から締め上げられる羽目になるのだが。
やがて料理は完成し、綾は両親とテーブルに着き、久々に一緒の食事を取るのだった。まあ”女の子”に変化してからでいえば初めてのことになるのだが。
その途中、父親が突然旅行を提案してきたのだった。どうやら母親にも内緒にしていたらしい、彼女も驚いた表情を浮かべている。
「旅行？　どこに行くつもりなのお父さん。」
唐突な家族旅行の提案に戸惑いながら綾が訊いてくる。母親もじっと父親を凝視している。
「実は会社のつてで海に面したホテルが取れたんだ。しかも砂浜まで直接出られるから、海の家も必要ない。どうだ凄いだろう？」
父親は鼻高々だ。娘や妻の前で良い所を久々に見せられて本人は満足なのだろう。
「一日位なら遠出しても良いとは言われているけど･･･」
「それにしても唐突ね･･･」
娘と妻は顔を見合わせて言う。予想もしていなかった話に、二人は喜ぶというより猜疑心が先に立ってしまうのを抑えられない。
そしてそれは次の父親の言葉で決定的になったのだが。
「それで綾、お前水着は有るのか？」
「？　それは一応。向こうで買ったやつを持ってきてはいるけど。」
慧達と一緒に買いにいき、市内のプールで着た水着だ。綾としては念の為に持ってきたもので、こちらで泳ぐつもりではなかったのだが、意外な出番である。
「うむ･･･それは良かった、何しろそこには温泉もあるんだ。しかも家族風呂だぞ。水着であれば皆で入れるだろ。」
「へっ！？」
思わず声を上げる綾。それはそうだ、水着の事を聞いたのはてっきり海で泳ぐ為だと思ったからだ。しかし父親は違った意味で訊いたようだった。
「久々に親子水入らずで風呂に･･･」
「あ・な・た。」
父親の言葉は母親の冷たい声で断ち切られる。どのくらい冷たかったかというと、言われた本人だけでなく、傍にいた綾まで凍りつくほどだった。
「なるほど、そういう裏があったんですね。何が久々の家族旅行ですか、下心丸見えじゃないの。」
母親が言葉を続けるうちに更に気温が下がっていく神城家のリビングである。これなら冷房いらないんじゃないのかと綾はこの時思った。
「いや･･･それはだな･･･親子の、いや、家族の絆の為にだな･･･」
母親の凍りつくような視線に父親の弁明はだんだん小さくなってゆく。こと此処にきて綾も父親の思惑に気付き、呆れた視線を向ける。
娘や妻の責めるような視線に父親は何も言えなくなる。どうやら図星を突かれたのは間違いないようで、落ち着かなげに視線を彷徨わせる。
「まったく、綾は娘とはいえ年頃の女の子なんですよ。それが水着姿とはいえ一緒に風呂に入ろうなんて、あなた何を考えているんですか。」
「それはだな、綾に背中を流してもらってだな。何と言っても父親の夢と言うか････」
要するに綾に背中を流してもらいたかったらしい。しかしそれならそう言えば良いのに、なんと回りくどい事を考えるのだろうか、綾は呆れ果てて言葉が出ない。
「それなら私がやってあげます、それはもう念入りに愛を込めてね。」
顔は確かにこやかだった、言葉も聞いているだけでは慈愛に満ちている。それなのに父親も傍らの綾も、母親が全身から怒りのオーラを発するのを感じていた。
「･･･いやそれはお前に悪いし、なに、別に一緒に入る事もないだろう。よ、予約は取り消せばいいしな。」
母親から怒りのオーラをまともに浴びせられている父親はようやく自分の失策を察したようだが、もう既に手遅れであった。
何だか父親が不憫に思えてきた綾だったが、母親の怒りのオーラに口を挟む事が出来ないでいた。
それに綾は母親ほど怒ってはいなかった。別に裸で入るわけではないし。まあ今の自分の水着姿を親とはいえ見られるのは、恥ずかしいとは思ったが。
だが綾が口を挟めぬうちに事態は彼女が思わなかった方へ進んでいったのだ。
「せっかく入れた予約を取り消すのはもったいないですわ。
でもあなたが入る気がないのなら、私達だけで入りましょう、ね？綾ちゃん。」
「え･･･それって？」
「おいお前･･･」
母親の言葉に綾と父親が戸惑った声を上げる。
「私と綾ちゃんなら親子で、しかも女同士だから問題ないわ。少なくても父親と入るよりはね。」
「お、お母さんちょっと待って。」
綾は思わぬ事態に慌てて母親を止めようとする、何だか嫌な予感がしたからだ。だが母親は止まらなかった。
「そうそう、女同士だから水着は要らないわね。ふふ･･･娘とお風呂でコミュニケーションなんて夢みたいだわ。」
さ、最悪だ･･･正直いってこれなら水着姿で父親と一緒に入った方がまだましだと綾はそう思った。少なくても裸にならないで済む。
いくら母親とはいえ、他の女性と入浴するのは、裸体を見るのも見られるのも未だに慣れない綾にとって一大事な事なのだ。
それでなくても桜木では慧と美智子に毎回一緒に入浴させられ、弄ばれて（笑）いるのだ。ここでまた母親にまでやられるのは御免蒙りたい。
「お母さん、そんなに無理して一緒に入らなくてもいいでしょう。」
出来れば一人で速やかに入浴を済ませたい綾である。そうしなければまたのぼせ上がるまでおもちゃにされかねない気がしたのだ。
「何？　綾ちゃんは私と一緒じゃ嫌なの？　慧ちゃん達とは毎日入浴しているくせに。」
拗ねたような表情で母親が責めてきて、綾を困惑させた。というのも今までそんな話をした覚えは無かったからだ。
「この前慧ちゃんと話したとき聞いたのよ。」
綾の疑問を母親が察して答える。そういえば慧と母親は、電話や手紙などでしょっちゅう連絡を取り合うほど親密な関係であった。
それは慧が母親を無くした後に、様々な相談を受けていたからで、お互い気兼ねなく話せる間柄らしい。当時は息子としては寂しいと思った覚えがある。
まあ母親は出来なかった娘の代わりに世話をしたかった面があり、慧にとっては身近に相談できる相手が得られたという状況もあったのだが。
「ああそう、やっぱり若い子との方が良いのね、こんなおばさんより･･･」　
「って何か誤解を生むような言い方するなよ母さん！」
拗ねていたと思ったら訳の分からない事を言い出した母親に、綾は思わず言葉遣いが元に戻ってしまう。
「だったら良いわけね、それじゃこれで決定。」
手を叩いて喜びを表す母親に綾は深いため息を付く。こうなったら何を言っても無駄な事は幼い頃からの経験で分かっている。
「わかったよ母さん。もう勝手にしてくれ。」
綾はもう降参という感じに両手を上げてみせる。母親は肯くと、今度は意地悪そうな笑みを浮かべながら言う。
「どうでもいいけど言葉遣いが戻っているわよ、あ・や・ちゃん。」
言われた綾は、はっとした表情を浮かべ、上げていた両手を唇に当ててしまう。
「くすくす･･･でも仕草は女の子しているのよねえ。」
母親の言葉に顔を赤くして絶句する綾。そこには母と娘の微笑ましい（？）やり取りの光景が展開していた。ところで父親の方だが････
「･･･娘と妻･･･一緒に･･･羨ましい･･･でもどっちが･･･？」
と、こちらも顔を赤くして何やらぶつぶつ言っている。どうやら心中色々と葛藤があるようである。もっともそれを見つめる妻と娘の視線は厳しかったが。
「まったくこれだから男は･･･」
「何だか、かつて自分が男だった事が嫌になってきた・・・。」
かつての自分の性別だった”男”という存在に空しさを感じつつ、ふと綾は今日再会した親友の姿を思い出しながら呟いた。
「･･･信一郎もそうなんだろうか･･･？」

取りあえず別の世界に行きかけていた父親を復帰させ、旅行のスケジュールを確認する。
その結果、出発は明後日で一泊二日。足は自家用車で、という事が決まった。その後、中断していた食事を終わらせ、後は風呂に入って休むだけとなる。
「それじゃ綾ちゃんが最初に入りなさい、ちゃんと髪洗いなさいよ。」
「うん分かっているって。」
一緒に入ろうなんて言われるかと警戒したが、母親もそこまではするつもりは無いようだった、と思ったら･･･
「流石に自宅のお風呂では狭いからね、それは旅行でのお楽しみよ。」
出来れば楽しみにしないで欲しいと綾は思ったが、母親は一人で盛り上がっている。一方、父親は深い落胆に襲われて、ソファに倒れこんでいる。
「･･･兎に角入るね。」
綾は異様な雰囲気に包まれたリビングをそそくさと逃げ出した。案の定、彼女の出て行った後に････
「あなた何時まで寝ているの？さっさと起きなさい。」
リビングからそんな母親の声が聞こえ、次の瞬間何かが床に打ち付けられる音がしたのだ。しかし綾は聞こえなかったふりをして客間に急いだ。
「しかし全然変わらないんだからあの二人。」
客間に戻り、替えの下着とパジャマを引っ張り出しながら綾は呟く。彼女が物覚え付いた頃から、あんなどつき漫才（笑）をしていたのだ。
お陰で近所ではわりと有名な夫婦らしい。まあ虐げられている父親の方は嬉しくもないだろうけど。それでも別れる気配が無いのだから夫婦というのは不思議だ。
着替えを持って風呂場に向かう途中、リビングを通った時に綾はそれとなく様子を伺ってみたのだが。
「あなた、お茶が入りましたよ。」
「うむ、すまんな。」
そこにはソファに座り新聞を広げている父親と、お茶を差し出す母親の姿があった。普通に見れば微笑ましい夫婦の姿に見えるのだが。
残念ながら父親の顔は赤くなっており、しかもフローリングの跡がくっきり残っているのだ。先程何があったのか容易に想像できてしまう。
「･･･まあいいかな。本人達がそれで良いなら。」
綾はその光景を見ながら一言そう言うと風呂場に急いだ。これも夫婦のコミュニケーションなのだろう･･･何か間違っているような気が多々あったが。
･･･ところで綾は忘れているようだが、お風呂に一人で入るのはこれが初めてだった。それまでは慧と（途中から美智子も）一緒に入浴していたのだ。実は綾は自分自身の身体をじっくり見る事がなかったのだ、一緒に入浴する女性達の視線のほうが気になったお陰で。
だから今回彼女はじっくり見てしまう羽目になった。自分の裸体を･･･その結果のぼせてしまい、心配して様子を見に来た母親に助け出される事になった。
「まったく何をしているんだか･･･」
ソファに寝かされ、濡れタオルを額に掛けられた綾に、母親は呆れたように言う。まあ、自分の身体を見てのぼせるなんて滑稽以外のなにものでもないだろう。
「･･･そうは言っても･･･恥ずかしいものは恥ずかしいし･･･」
反論する声も小さい。綾にすれば、今まで想像の範疇だった女の子の身体が、自分のものとはいえ目の前に有るのだ。動揺するなというのは無理な話だ。
「やっぱり私と一緒に入浴した方が良いわねこれは･･･」
母親がそう言う。心なしか嬉しそうに聞こえるのは、あながち間違いではあるまい。
「でもそれは････」
「入浴する度にのぼせているつもりなの綾ちゃん？」
こう言われれば綾も反論のしようが無かった。現にこういう状況に陥っているのだから。
さて、ここまで見ていて父親はどうしたのか？　あの娘至上主義者が何故この状況下静かなのか？実は彼は別の部屋に強制退去させられていたのだ。
理由は今の綾の姿のせいだった。身体を楽にする為に、着ているパジャマのボタンを半分外し胸のあたりを開放しているのだ。しかもノーブラの･･･
そうなれば当然綾の胸が開けられたパジャマの間から垣間見えてしまう。よって父親は母親によってリビングを追い出されているのだ。
その点については綾も納得している。いくら父親とはいえこんな姿を見られるのは恥ずかしい。もっとも相手が母親でもそれは変わらないのだが。
だが風呂場でふらふらになった状態の綾に下着（ショーツ）を穿かせ、パジャマを着せてここまで連れて来てくれたのだ、そんな母親に文句は言えまい。
「それにしても綾ちゃん、小振りだけど良い形の胸ね。流石は私の娘ね。」
「ってお母さん何処見ているの？！」
人の胸をじろじろ見て、そんな感想を言うのは止めてほしい綾だった。
その後、母親に連れられ客間に運ばれた綾は既に敷かれていた布団に入れられた。
「それじゃゆっくり休みなさい。」
「うんありがと、お母さん。」
母親は肯くと客間を出てドアを閉める。ぼんやりそれを見ながら綾は眠りに落ちてゆく、夢を見る事も無い深い眠りに。

綾の帰郷一日目はこうして終わりを告げたのだった。